昭和50年5月日不明
かつらぎ教会 №50-048A-2
初代の安武先生は、吉井教会のある記念祭の時にたくさんのお参りと同時に特別の来賓の町長さんとか教会のさんとか招待がしてあったんでしょう。今日こそ今の合楽の言葉で言うと合楽示現活動しにゃならんと思うて、御説教台の前に立たれたところがもうぎっしりお話がでなかったと、それで神様にお詫びをして、神様にお話をさせて頂かなければ安武松太郎で出来る事ではないという事を知ったというお話をさしてもらった事があります。
これは本当にそうですね。話が上手な先生なんかは、いろいろ勉強しておられたり本を読まれたりしておられますから、見事にお話されますけれどもそのお話では助からんのですやはり。話が例えば下手であっても、教養はなくても幼稚な話であっても、やはり神様からね、その先生の頭脳の程度に神様が現れなさってそして話さしてくださるなあと思うお話でなからければ人は助からんです。
ですから、そういう意味で私は合楽の場合は、もういつの場合であっても大坪総一郎が話しておるとは思われませんです。
ですからいうならそのくらいのもんですから、結局ならそれでも頂く方の側が、それを吸収し得なかったら、やっぱおかげにはならんという事です。
ですからね、夕べから今朝にかけて、それこそ手前味噌のような話ばっかりのように感じるんですけれども、私はもう本当におかげを頂かしたいばっかりで本当の事を、神様は言うて下さっておるという感じがするんです。
今日は宮の陣の秋山さんの轟さんていうんですかね。そちらからお参りして来てから、今朝の話をそのまま具体的にその人が頂いとる教会のことだけ頂いとりますからね。いかに私のお話が、いかにも合楽でなければ助からん事のような言い方をすると、それは大変聞き苦しかった、又私もあんまり好かんのですけれどもそいう話になってくるんです。今日の話もそうです。
安武先生ですら、自分で話そうとなさっては、話ができなかったと言われるように、それは私の場合もいつも実感します。
ですから結局神様が、話させてくださる話ですからこちらに吸収力があり本当におかげ頂こうと思うたら、絶対合楽の御理解ではおかげを頂く御理解、内容を持った御理解なんです。
ですから頂く方の側が、一つ本気でそれから頂こうという願い又はそいう姿勢を作らなければ、おかげにならないと。これは、もうどうでもですね、そういう熱心なその頂き方でないと、良いおかげになってこないように思います。何か御理解を頂いて、はーほんにそうだったと言うのが一日の軸になり芯になって、そうするとそれがおかげを呼ぶというおかげでなからなければね。
お願いをしたからおかげを受けたという事もですけれども、やはり分からして頂いておかげを頂くというおかげになって行くためにも、まあひとつまちっと合楽のお話を、もっともっと素晴らしく言うなら評価してもらいたい。とそら皆さんそう思うておられるで すけれどもね。けれどもそのもっともっとそれを、例えばいつか私は総代さん方、正月に来て頂くんですが正月の七日ですかね。
時に、何人か見えない事がございました。それで私が申しました。これがもし金光様から、正月の御招待をしかも教会の何人かが受けたら、それこそ襟を正して紋付袴でそれこそ前の日からでもその招待に応じるだろうけれども、大坪総一郎があんたたちを招待しとると思うから、これなかったりするんだ。
問題はそういう頂き方なんです。大坪総一郎が話しておるんだと思うたら、確かに神ながらなお話しと思うても頂き方がそういう粗相な事になって来るから。
いわゆる金光様のお話と頂けれる様な、やはり受け方姿勢が大事だと思いますね。